みどりの歯科クリニック

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アドリア海を行く

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【連載32】アドリア海を行く 16.まとめ

【連載32】では、アドリア海とエーゲ海のお話しをしました。
皆さまには、その美しい海と西欧の古代文明に興味を持って頂ければ幸いです。

みどりの歯科クリニックは、これからも皆様と共に歩んで行きたいと思っております。
どうぞお気軽にお立ち寄りのうえ、ご遠慮なくご相談下さいますようお願い致します。

 

2020-05-31 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 15.サントリーニ島はアトランティス伝説のモデル?


エーゲ海に浮かぶ「最も美しいもの」
ギリシャ本土とクレタ島の間のエーゲ海に浮かび、
古くは「最も美しいもの」と呼ばれたのがサントリーニ島、正式名はティラ島です。

この島は大きな海底火山の山頂部分で、
中心にある2つの小さな島が火口、周囲の大小3つの島は外輪山です。

かつて栄えたが海に沈む
クレタ島を中心に栄えたミノア文明は、この島でも花開きました。
島の南部アクロティリには街が築かれ、エーゲ海の交易を支えていました。

ところがこの最も美しいと言われた島が、紀元前1600年頃、史上最大級の大噴火をしました(*1)。

そのため島全体が大きく陥没し、ほぼ環状だった外輪山は、3つの島に姿を変えました。
またアクロティリの街は火山灰に埋もれ、跡形も無くなりました。

古代ギリシャがアトランティス伝説を生む
大噴火から約千年後、ギリシャ七賢人の一人、ソロンは、
エジプトの神官からアトランティス伝説の話しを聞きました。

それをもとに、ギリシャの哲学者プラトンは著書「ティマイオス」で、
『激しい地震と洪水が起こり、-- アトランティスの島は海深くに消えた。』 と記しました(*2)。

アトランティスのモデルはサントリーニ島?
そして、プラトンから2千数百年を経た今、つい50年ほど前から、
サントリーニ島アクロティリで本格的な発掘が始まり、かつての繁栄ぶりが明らかになって来ました。

その中で、『アトランティスのモデルはサントリーニ島』 と考える人も少なくないのだそうです。

(注記)
(*1) 火山爆発の規模は噴出された物質の量をベースに決定され、火山爆発指数(VEI)と呼ばれます。
このサントリー二の噴火は VEI=7で、「超巨大(super-colossal)」に区分されています。
(*2) Plato(Translation by B.Jowett)(360BCE): Timaeus.

 



 

2020-05-24 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 14.クレタ島はミノア文明の中心だった


エーゲ海の南を縁取る島
クレタ島はギリシャ本土アテネから南東に約350km、エーゲ海の南側を縁取る島です。
この島には、ヨーロッパ最南端と言われる、イエラぺトラの町もあります。

ミノス王の宮殿を発見
1900年、英国の考古学者エヴァンズは、クレタ島クノッソスで発掘を開始しました。
そして数か月後には、ギリシャ神話に登場するミノス王の宮殿、と思われる遺跡を発見しました。

これはシュリーマンによる、トロイやミケーネ遺跡発見から数十年後のことでした。

エヴァンスはさらに、クレタ島の文明はミケーネ文明とは異なる、ことを示しました。
そしてクレタ島の文明を、国王ミノス(Minos)に因(ちな)んで、ミノア(Minoan)文明と名付けたのです。

神話の世界は現実だった
ギリシャ神話の世界では、クレタ島のミノス王のお話しは、古くから知られていました(*1)。
しかし、そのミノス王が実在したことを示したのは、エヴァンスが初めてでした。

クレタ島はギリシャ本土より先に栄えた
クレタ島は紀元前2000年頃に地中海交易で栄え、クノッソスなど数か所に宮殿が建てられました。
宮殿には各地から物資が集められ、そこで貯蔵・加工・再配分をしたと考えられています。

このようにクレタ島では、ギリシャ本土で都市国家が栄える前に、独自のミノア文明が花開いたのでした。

(注記)
(*1) 本ブログ 「2.その名の由来(2):エーゲ海」でも、「ミノス王」と「怪物ミノタウルス」が登場しました。


 



 

2020-05-17 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 13.神話から始まるブトリントの歴史

古代ローマの叙事詩
古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩、「アエネーイス」 はラテン文学の最高傑作と評されています(*1)。

エーゲ海東岸で栄えたトロイが陥落すると、英雄アエネーアースは神のお告げにより、イタリア半島をめざします。
地中海の長い船旅を経て半島に着いた彼は、激戦の後に土着勢力を征圧し、古代ローマの礎を築き上げるのです。

トロイの王子が築いた町
さて、トロイの王プリアモスには100人近くの子供がいました。

その中で息子ヘレノスはトロイ陥落後、現在のギリシャ北西部イピロスの地に逃れて来ました。
そして海に囲まれたブトリントに町を築き、さらにはイビロス地方の王になったのでした。

ブトリントのギリシャ・ローマ時代
古代ギリシャが最盛期を迎えると、ブトリントの町は、西にイタリア半島また北には未開の地を控えた、戦略的拠点として栄えました。
そして丘の上のアクロポリスをはじめ、劇場、広場(アゴラ)、神殿や城壁などが建設されて行きました。

その後、ローマ帝国が勢力を拡大する中で、ブトリントはその保護下に入りました。
特に皇帝アウグストゥスの時代には、屯田兵の入植と併せて、水道、浴場、住宅などが建設され、町の規模が2倍に膨らんだとも言われます。

アルバニア初の世界遺産
このブトリントは1992年、アルバニア国初の世界遺産に登録されました(*2)。

ブトリントへは、県庁がある町サランダからバスで1時間弱です。
そしてサランダは欧州のリゾート、ハネムーンの町としても人気上昇中です。

(注記)
(*1) Virgil (translation by John Dryden(1697)): The Aeneid.
(*2) UNESCO: (Home Page)/World Heritage List/Butrint.


 



 

2020-05-10 00:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 12.宮殿から城壁都市へ


州都サロナが襲われる
東ローマ帝国は、ユスティニアヌス大帝の時代から、アヴァール人やスラブ人 の侵入に悩まされていました。
7世紀、彼らはダルマチアの州都を襲い、サロナの街を大きく破壊しました。

人々は城壁内に逃げ込んだ
その時、街を追われた人々が逃げ込んだのが、スプリットの宮殿でした。
強靭な城壁に囲まれたこの宮殿は、絶好の避難場所だったのです。

宮殿から城壁都市へ
やがて城壁の門の片隅には、人々のために小さな教会も作られました。
こうして彼らは城壁に囲まれた宮殿内に住み着き、そこで働くようになりました。

今でもレストランや店舗などが、宮殿内にあるのはこのためです。

今やユネスコの世界遺産
1979年、ユネスコは「ディオクレティアヌス宮殿と周辺のスプリト歴史地区」を、世界遺産に登録しました(*1)。
クロアチアでは、「ドブロブニク旧市街」と並び、最初に登録された世界遺産(文化遺産)です。

(注記)
(*1) UNESCO: 2006 Periodic Reporting Cycle 1, Section II (Summary), Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian.


 



 

2020-05-03 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 11.スプリットのローマ皇帝宮殿

スプリットに建つ宮殿
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは退位後の人生を、故郷の近くに建てた宮殿で過ごしました。

現在、この宮殿はスプリット旧市街とも呼ばれ、クロアチアで1、2を争う人気の観光スポットです。

宮殿を囲む城壁と門
宮殿は周囲に城壁をめぐらし、その長さは東と西面が各々約215m、南と北面は各々約180mにおよびます。
その4隅には大きな塔が立ち、また南面の城壁は、かつて海に面していました。

東西南北・各城壁面の中央には門があり、各々、銀の門、鉄の門、銅の門、金の門、と呼ばれています。
北面の金の門は、ダルマチア州の都サロナに通じていました。

中心はぺリスティル広場
東西の門を結ぶ道路の南側には、重要な建物が並んでいます。

それらの中心をなすのがぺリスティル広場です。
美しい列柱(peristyle)に取り囲まれており、かつては宮殿の中庭でした。

神と皇帝の空間
広場の東側にあるのは聖ドミヌス大聖堂、最も見応えあると評判のスポットです。
ディオクレティアヌス皇帝のキリスト教迫害で殉教した、サロナの司教ドミヌスが祀られています。

当初は皇帝の霊廟(れいびょう)でしたが、キリスト教徒により石棺が破壊され、遺体も失われたままです。

広場の西側はキリスト教の洗礼堂ですが、当初はジュピター神殿と呼ばれ、ローマ神話の主神が祀られていました。

そして広場南側には円形の吹抜け広間があり、その先には皇帝の居住空間が広がっています。


 



 

2020-04-26 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 10.スプリットが生んだ偉大なローマ皇帝

今のスプリット近くで生まれる
クロアチアで2番目に大きい都市、スプリットの郊外にソリンと言う町があります。
かつてソリンは、ローマ帝国の属州ダルマチアの州都で、サロナと呼ばれていました。

そのサロナで244年、解放奴隷の子として生まれたのが、ディオクレスです。

軍人から皇帝ディオクレティアヌスへ
その頃のローマは、国内での皇帝乱立に加えて、ゲルマンやペルシャなど異民族の侵入に悩まされ、帝国存亡の危機に立たされていました。

その中でディオクレスは、一兵卒からはじめて、ローマ皇帝を護衛する近衛師団長になりました。
さらに284年には帝国軍の推薦を受けて皇帝となり、その名をディオクレティアヌスに改めました。

ローマ帝国の大混乱を鎮める
3世紀にローマ帝国を襲った大混乱は、このディオクレティアヌスの皇帝即位で、収束に向かいました。

そこでは国を治める体制や形態を改革すべく、専制君主制や4分割統治が導入されました。

専制君主制では、強力な官僚制を作り上げ、専制的な皇帝が官僚制を介して人民を支配する体制を築きました。
4分割統治では、広大な領土内の混乱を鎮め安定させるため、領土全体を4分割して4人の皇帝に分担統治させました。

スプリットでキャベツを育てる
彼は約束通り20年で退位すると、故郷サロナに近い現在のスプリットに隠棲しました。

あるとき、皇帝の特使が訪れて政権への復帰を請うと、彼はこう答えました(*1)。

「もしも皇帝がこのキャベツを見れば、-- 私がここで自分の手で育てたこのキャベツを見れば、
私にこの幸せを楽しむのを諦めさせ、権力闘争に加担させたりしないだろう(*2)。」

(注記)
(*1) ここで言う皇帝とはマクシミアヌスのことです。彼は、かつてディオクレティアヌスの忠臣でもありました。
(*2) Charles Dickens(1893):All The Year Round, Third Series, Vol.10, p.153.


 



 

2020-04-19 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 9.ジブリの世界ドブロブニク

ジブリのアニメとその舞台
魔女の宅急便(1989年)と紅の豚(1992年)は、共にスタジオジブリの代表的長編アニメです。
それらの舞台として、ジブリは各々次の場所を「大いに参考にした」としています(*1)。

魔女の宅急便 :ストックホルムとヴィスビーの町(共にスウェーデン国)。
紅の豚    :アドリア海沿岸。

「魔女の宅急便」とドブロブニク
しかしファンの間では、魔女の宅急便に登場するコリコの街は、ドブロブニクに似ているとも言われます。

ドブロブニクの裏山から見下ろす街並みは、ホウキに乗って飛ぶ可愛い魔女、キキが見た光景を想わせます。
そしてまた街を散策すると、キキの相棒ジジそっくり(?)の黒猫にもめぐり会うからです。

「紅の豚」がアドリア海を空から守る
紅の豚の主人公ポルコは元イタリア空軍のエースで、今はアドリア海の小島に隠棲する飛行艇乗り、
アドリア海に浮かぶ客船を襲う、空中海賊を退治する賞金稼ぎの生活です。

そして彼が想いを寄せる美女ジーナは、アドリア海の海上ホテル・アドリアーノを経営する未亡人です。

物語の続きを思い描く
宮崎監督は『紅の豚, パートII』 製作に意欲を示し、「題名は『ポルコ・ロッソ 最後の出撃』」などと語ったそうです。

ドブロブニクの真っ青なアドリア海を見ながら、この物語の続きを思い描くのも楽しそうです。

(注記)
(*1) スタジオジブリ: (ホームページ)/カテゴリメニュー/Q&A/作品の舞台はどこですか?/


 



 

2020-04-12 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 8.ドブロブニクはアドリア海の真珠


アドリア海の真珠
ドブロブニクはその美しさから、しばしば「アドリア海の真珠」と呼ばれます。
この愛称の由来は「城壁」、旧市街を囲う白い石灰岩の城壁、にあるのだそうです(*1)。

街を守った城壁は、今や世界遺産
この城壁はドブロブニク市ご自慢の都市防御施設で、長い歴史の中で一度も外敵に破壊されず、市民を守り続けてきました。

そして1979年には、城壁の大半と旧市街が、ユネスコの世界遺産に登録されました。

城壁を少し詳しく見る
城壁の全長は1,940mで旧市街の大部分を囲っています。
厚さは1.5~6mで陸側が厚く、高さは最大25mもあります。

14~15世紀にほぼ出来上るも、17世紀まで延長・補強作業が続けられました。

絶対おすすめの観光スポット
この城壁は、宮殿や修道院と並ぶ、ドブロブニクの人気スポットです。
旧市街を見下しながら、城壁上を歩いて1周出来ます(所要時間:1~2時間)。

一番高いミンチェタ要塞に上ると、そこからの絶景は最高です。
オレンジ色の屋根が並ぶ旧市街、そして、限りなく青いアドリア海が眼下に広がります。

(注記)
(*1) ドブロブニク市:(ホームページ)/Dubrovnik/Essential Dubrovnik/(黄丸印)Entrance to the City Walls/


 



 

2020-04-05 08:00:00

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【連載32】アドリア海を行く 7.海洋共和国ドブロブニク


イタリア半島の4大海洋共和国
中世のイタリア半島では、多くの海洋共和国が栄えました。
なかでも良く知られるのが4大共和国、ベネチア、ジェノバ、ピサ、そしてアマルフィです。

ドブロブニクはダルマチアの代表
そのベネチアの拠点、アドリア海の東側に伸びるのが、バルカン半島のダルマチア地方です。
そして、この地方を代表する海洋共和国がラグーサ、現在のドブロブニクです。

強国の支配下で成長する
1205年、第4回十字軍を主導したベネチアは、ドブロブニクに侵入して支配下におきました。
しかし、その自治権をほぼ維持したドブロブニクは、次第にその勢力を増して行きました。

そして1358年、ハンガリーの支配下に移ると、さらに独立性を高めることが出来ました。
 
15世紀、オスマン帝国がバルカン半島に進出すると、ドブロブニクはその支配下に入りました。
しかし貢納(こうのう)することで独立性を保ち、かつ帝国の保護下で交易する特権を得たのでした。

最盛期は15~16世紀
こうしてドブロブニクが、オスマン帝国と西欧社会を結ぶ大役を担(にな)うなかで、
最強の海洋共和国と言われたベネチアは、幾度もオスマン帝国と衝突し疲弊して行きました。

15~16世紀、最盛期を迎えたドブロブニクは、アドリア海でベネチアの他に敵なし、と言われるほどでした。


 



 

2020-03-29 08:00:00

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